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第132話 正しい人ほど、腹が立つ

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-10-03 06:01:46

 沙耶を嫌いになれれば、もっと簡単だった。ところが仕事で会うたび、彼女の判断は腹が立つほど筋が通っている。高湿度で金具の変色リスクが出れば試験条件を増やし、物流費が上がれば値上げより先に梱包を見直す。部下の失敗を人前で責めず、会議後に必要な修正だけを渡すところまで、私が嫌うには出来がよすぎた。

「この色は残しましょう。水城さんの判断でいいと思います」

 そう言われるたび、素直に受け取れない自分の方が面倒になる。

 昼休み、景都から電話が来た。近くで会議があるので、時間が合えば夕飯でも、という話だった。

「二十一時を過ぎたら無理」

『分かった。終わったら連絡する』

 昔なら店まで押さえてから知らせてきたはずだ。それだけの違いなのに、電話を切ったあと少し口元が緩んだ。

 結局、沙耶との会議は二十一時十五分までかかった。〈まだ会社〉と送ると、景都からは〈今日はやめよう〉と返ってきた。

 残念だった。

 帰りのエレベーターで沙耶と二人になる。彼女は私がスマートフォンをしまうところを見ていたらしい。<
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  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第134話 彼があなたを愛しているから

     海外テストの最終承認前、沙耶に呼び出された。仕事の話だと思って会議室へ行くと、机の上にあるのは薄い資料が一冊だけだった。「担当変更の件ではありません」 先に言われ、椅子を引く。沙耶は資料の表紙を見たまま、珍しく言葉を選んでいた。「水城さん。あなたが嫌いなわけではありません」「急ですね」「急にしないと、たぶん言わないので」 そこから景都の話になった。仕事では冷静で、損失が出る判断もする男が、私のことになると最悪を先に想定し、ほかを待たずに動こうとする。だから厄介なのだと沙耶は言った。「あなたがいると、彼は弱くなる」 思ったほど腹は立たなかった。代わりに、胸の奥が冷える。「弱くなるって、どういう意味ですか」「守ろうとする。余計なリスクを取る」「それは景都の問題でしょう」 沙耶の指が資料の角で止まった。「私がいなければ、景都は完璧になるんですか」「少なくとも判断は安定します」「じゃあ、離れた方がいい?」 今度は、すぐに答えが返ってこなかった。 その間だけで十分だった。「それ、景都本人には言いました?」「言っていません」「なら、私だけに言うのはずるいですね」 沙耶が初めて目を伏せた。 窓に雨粒が当たり始めていた。会議室の空調は効きすぎていて、置かれた水のボトルに細かい結露がついている。 私は蓋を開ける。「景都が私を守ろうとして失敗したことは、私も知っています。でも、私が離れれば解決するって話なら、本人抜きでは決められません」 言いながら、自分でもきれいに言いすぎた気がした。「……というか、今は、そんなに簡単じゃないです」 沙耶が顔を上げる。「何が?」「私だって、平気じゃないので」 それだけで十分だった。 廊下へ出ると雨の音が近くなった。傘は持っていない。入口の庇の下で立ち止まり、鞄から折り畳み傘を探す間、沙耶の「弱くなる」が頭の中へ戻ってきた。 庇の端から雨水が一定の間隔で

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第133話 元妻という肩書き

     海外テストの記者向け資料ができた頃、商品より先に私の肩書きが問題になった。人物紹介欄には、〈水城真帆 mellow note商品企画/深見景都氏の元妻〉とある。「これ、要ります?」 久世側の広報担当は、検索対策として説明があった方がいいと言った。私が商品担当として来ているのだと返すより先に、沙耶が資料を取る。「削ってください。検索すれば分かる情報を、こちらから肩書きにする必要はありません」 問い合わせが増えるのでは、と担当者が食い下がると、来た時に事実だけ答えればいい、と沙耶は言った。 会議後に礼を言うと、「資料の精度の話です」と一蹴された。それでも助かったものは助かった。 午後の事前取材では、海外メディアの記者から直接、景都との復縁がプロジェクト参加に影響したのかと聞かれた。通訳が言葉を選ぶように一度こちらを見る。 景都はLATTICE側の席に座ったままだった。「今回の仕事は、私の会社と久世ホールディングスの契約です」 では現在の関係は、と続けられる。私は一度水を飲んだ。冷たいはずなのに、舌にはほとんど味がしない。「仕事とは関係のないことです」 それだけで終えた。 記者は少し待ったが、通訳が次の質問へ移る。机の上には商品の仕様書が開いたままで、ようやく話題が仕事へ戻った。その時になって初めて、握っていた指をほどいた。 取材後、廊下で景都と並ぶ。「嫌だった?」「質問は嫌だった。でも、景都が答えなかったのはよかった」「俺が答える話じゃないから」 エレベーターの鏡に、私たちが横に並んで映る。肩書きがなくても距離は近い。「私たち、今、何なんだろうね」 景都がこちらを向いた。「俺の答えならある」 扉が開いたので、私は先に降りた。「今は聞かない」 番組の頃なら、答えを出さない時間まで画面の材料にされた。今日は、答えなかったことごと取材室へ置いてこられた。 ロビーの自動ドアが開くたび、外の冷気が足元へ入ってくる。景都は私の歩幅に合わせただけで、取材の答えを褒めもしなかった。何と答えればよかったか、と私も聞かなか

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第132話 正しい人ほど、腹が立つ

     沙耶を嫌いになれれば、もっと簡単だった。ところが仕事で会うたび、彼女の判断は腹が立つほど筋が通っている。高湿度で金具の変色リスクが出れば試験条件を増やし、物流費が上がれば値上げより先に梱包を見直す。部下の失敗を人前で責めず、会議後に必要な修正だけを渡すところまで、私が嫌うには出来がよすぎた。「この色は残しましょう。水城さんの判断でいいと思います」 そう言われるたび、素直に受け取れない自分の方が面倒になる。 昼休み、景都から電話が来た。近くで会議があるので、時間が合えば夕飯でも、という話だった。「二十一時を過ぎたら無理」『分かった。終わったら連絡する』 昔なら店まで押さえてから知らせてきたはずだ。それだけの違いなのに、電話を切ったあと少し口元が緩んだ。 結局、沙耶との会議は二十一時十五分までかかった。〈まだ会社〉と送ると、景都からは〈今日はやめよう〉と返ってきた。 残念だった。 帰りのエレベーターで沙耶と二人になる。彼女は私がスマートフォンをしまうところを見ていたらしい。「深見さん、待ってるんですか」「今日は会わないです」「そうですか」 それ以上聞かず、一階で先に降りる。私は駅へ向かうため反対側へ曲がった。「水城さん」 呼ばれて振り返る。「彼、昔なら待ったでしょうね。あなたが来るまで」 皮肉かと思ったが、沙耶の顔は真面目だった。「待たないことを覚えたんですね」 それだけ言って車寄せへ向かう。 駅まで歩く間、景都がどこかで私を待っている姿を想像した。以前なら、それを愛情の証明にしたかもしれない。どれだけ遅くても迎えに来る、拒んでも追ってくる。望んでおきながら、息苦しいとも思っていた。 今夜、景都は自分の夕食へ戻り、私も一人で駅へ向かう。 ホームで電車を待ちながら、〈また今度〉と送った。 〈うん。帰り気をつけて〉 それ以上は来なかった。 駅へ着くと、改札前の蕎麦屋から出汁の匂いが流れてきた。夕飯を食べ損ねたことに気づく。景都と会えなかった夜だからといって、何か特別なもの

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第131話 景都が選ばない女

     翌朝、久世ホールディングスの会議室で、担当変更に反対する資料を最後まで説明した。沙耶は途中で口を挟まず、数字の横へ二、三度だけ印をつけた。 最終ページを閉じると、「現地担当は水城さんのままにします」と言う。 あまりに早くて、聞き返してしまった。「仕事として合理性があるので。私が欲しかったのは、それです」 試されたのだと分かると腹は立ったが、反論できない。ほかの出席者が退室しても、沙耶だけは席を立たなかった。「仕事とは別に、一つだけ」 窓の外へ目を向けたまま、景都と戻るつもりなのかと聞かれる。「それは、久世さんには関係ないと思います」「そうですね。でも、私には少しだけ関係がある」 景都がLATTICEを立ち上げた頃、家同士で縁談が出たことがあるという。沙耶は海外にいて、正式に顔を合わせる前に断られた。「写真も見なかったそうです」 その言い方が景都らしくて、思わず息が漏れた。沙耶も口元を緩める。 なぜ今その話をするのか、と聞くと、「私が彼を好きだったからです」と答えた。過去形なのかどうかまでは分からない。「一緒に仕事をして、断られた理由も分かりました。あの人、自分が選んだもの以外、ほとんど見ないでしょう」「私を選んだって言いたいんですか」「言う必要があります?」 胸の奥が熱くなる。けれど沙耶は勝ち誇っているわけでも、傷つけようとしているわけでもなかった。ただ、自分の負けた場所をこちらへ見せている。「恋愛で競う気はありません。深見さんは私を選ばない」 そこまで言ってから、彼女は机に置いたペンを指で転がした。「ただ、あなたが隣にいることで仕事の判断が変わるなら、話は別です」 恋敵ではないと言いながら、もっと厄介な場所から見られている。 私は資料を鞄へ入れた。「それなら、仕事で見てください」「そのつもりです」 会議室を出る直前、沙耶が「選ばれないかもしれない、と怯える必要だけはないと思いますよ」と言った。 振り返らなかった。 エレベーターを待つ間、沙耶の会議室のガラス越しに

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第130話 私の仕事から外さないで

     説明会の翌朝、部長の机に久世側から修正版の体制案が届いた。海外テストの現地責任者から私の名前が消え、営業部の主任へ変わっている。 部長も初めて見たらしく、すぐ先方へ確認を入れた。三十分後、沙耶本人から電話が来る。『商品評価は変わっていません。問題は、水城さんと深見さんの関係が記事の中心になり始めたことです』 昨日の記者質問は、すでに〈元夫の会社が後押しする海外進出〉という見出しになっていた。商品について書かれたのは二行だけだという。「だから、私を外したんですか」『企画は残します。現場担当だけ替える。会社としては合理的です』 理屈が分からないわけではない。それでも、自分の名前が消えた欄を見ていると、指先が熱くなる。「正式決定の前なら、一日ください。私が現地担当である必要性を資料にします」 電話の向こうで短い間があり、『感情論では通しませんよ』と返ってきた。「仕事の資料を出します」 景都へ連絡すれば、久世側で誰が何を決めたのかすぐ分かるだろう。連絡先を開きかけた時、部長が「深見さんには聞かなくていいの」と言った。「これは私の仕事なので」 午後いっぱい、返品率、引継ぎ日数、現地バイヤーとの打ち合わせ履歴を並べた。私が外れれば再説明に最低三週間。テスト開始も一週間遅れる。数字へ変えていくと、腹立たしさは消えなくても手は動いた。 自分がいなければ困る、と証明する作業は思った以上に疲れた。必要とされたいと叫んでいるような気がして、途中で何度か画面を閉じたくなる。それでも、誰かに「彼女を残してやって」と言ってもらうよりはましだった。 夜十時、資料を送信する。肩が固まっていて、立ち上がった途端に首の後ろが痛んだ。 その時、景都からメッセージが来た。 〈久世から担当変更の話を聞いた。俺からは何も言ってない〉 先に動かなかったことを知らせる一文だと分かった。 〈ありがとう。明日、自分で話す〉 少し迷い、もう一通だけ送る。 〈もし負けたら、その時は愚痴を聞いて〉 返事はすぐだった。 〈それなら、いくらでも聞く〉

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第129話 席は、そこじゃない

     海外テストの説明会は、久世ホールディングスのホテルで開かれた。壇上にはスクリーンと三つの椅子が並び、久世沙耶、深見景都、現地事業責任者の札が置かれている。mellow noteの席は二列目の端だった。 商品説明は私がする予定だ。案内された席を見て立ち止まっていると、背後から沙耶が来た。事情を聞いた彼女は壇上を見上げ、スタッフへ椅子を一つ増やすよう頼んだ。「商品を作った人が二列目なのは変でしょう」 礼を言うと、「仕事の配置です」と返される。ところが別のスタッフが、増やした席を景都の隣へ置こうとした。「水城さんは商品側です。私の隣へ」「でも、報道写真では――」「誰の写真のための席ですか」 声は静かだった。スタッフが口を閉じたところへ景都が会場へ入り、状況を聞いて「真帆の席は商品説明の位置でいい」と言う。名前を呼ばれた瞬間、近くの記者が顔を上げた。 私は彼の袖を軽く引いた。「今、そこは説明しなくていい」 景都はそれ以上言わなかった。 説明会が始まる。耐久試験について話す間、景都は一度も口を挟まない。質問が危機対応へ移れば、今度は私が黙った。それぞれの担当へ話題が渡っていく。壇上に四人並んでいても、同じことを答える必要はなかった。 終わったあと、記者の一人が、景都との関係が今回の採用に影響したのではないかと尋ねた。景都が動く気配だけが視界の端に入る。「採用理由は久世ホールディングスへ聞いてください。私は、採用されたあとの仕事で答えます」 重ねて質問される前に、沙耶が「彼女を選んだのは私です」と引き取った。 写真撮影の準備が始まり、スタッフが椅子の間隔を数センチずつ直していく。私はその手元を見ていた。誰の隣に置くかだけで、本人の言葉より先に関係を説明されることがある。番組では立ち位置のテープがそうだった。 スタッフが余った椅子を畳み、壁際へ運ぶ。私の札は沙耶の隣に残った。 控室へ戻る途中、増やされた椅子のせいで通路が少し狭くなっていた。スタッフが「すみません」と言いながら位置を直す。私は自分の名札を外し、裏側に付いた両面テープを指で丸めた。壇上ではたった四文字の名前なのに、どこへ

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